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2 神による私の心のケア

「神は私たちの心の痛みを思いやっておられるか」ということに焦点を当てたいと思います。聖書では、神が私たちを愛し思いやっておられることが明確に示されていますが、私たちは個人生活で苦しんでいる問題があるため、神による心のケアを感じないことがよくあります。聖書を読んでも、裁きに関するみことばしか見えない方が沢山おられます。心の傷につながった問題を抱えているために、神の思いやりを示すみことばには気付かないのです。

神の心の美しさは、私たちのそれぞれのニーズを気に留めていてくださることに現れています。神は、私たちがこれまでに体験し、直面してきた問題をすべてご存知です。私たちの思考に入ってきた否定的な考えをすべてご存知であり、思いやってくださっています。イエス様が十字架で亡くなられたのは、私たちが罪を悔い改めることによって神との交わりを取り戻し、神との関係を回復することができるようになるためです。ヨハネ 3:16 に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。神が主イエス・キリストを遣わされたのは、私たちの神との関係を心配しておられたためだけではなく、私たちの罪が赦され、私たちが神との永遠の関係を持ち、この世で経験する痛みの只中で、神の平和を経験することができるようになるためです。

神は、問題を抱えた人や心の痛みによる傷を負った人の個人的なニーズに対する思いやりの心をお持ちです。あなたの心、あなたの痛みに神が関心をお持ちになったことがあると思いますか。神があなたを理解していると感じたことがありますか。プレッシャーの真っ只中にあって、神があなたの心に平安を語り、慰めてくださるのを許容したことがありますか。悩んでいる問題は誰にもあります。私たちは自身の不十分さに悩みます。そして特定のプレッシャーは、異なる人々に影響を及ぼします。問題は、「主イエス・キリストが私たちの心を助けてくださることを私たちが許容しているかどうか」ということです。私たちの心は、出来事、人々、生活のプレッシャー、そして自分のコントロールの及ばない状況によって、傷つくことが多くあります。

私のオフィスに来られた方々に、心(ハート)の絵を下さいとお願いすることがよくあります。このような質問をされたことがないため、どのように返事すればいいのかわからない人がおられます。返ってくる答えには次のようなものがありました。

これらは、人々が自分の心の状態を言葉で描写したものです。このような痛みの問題を経験していても、平安を経験したり心の状態を変えたりすることは可能であるということに気が付いておられない人たちが心の痛みについて語られるのを、私は毎週聴いていますが、それが私の仕事の最も悲しい部分です。イザヤ書 30:18 は、「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される」と語っています。

私は、イザヤ書の多くの箇所を楽しんできました。デボーショナルでイザヤ書を読んでいたとき、私は、イザヤ書の第 40 章から 60 章までで、預言者イザヤが神が神の民を大事に思っておられることを書き記していいる箇所をマークし始めました。これは私にとって大きな励みとなりました。 私は、私のオフィスで、イエス様が、傷つきあざだらけになった心を癒してくださる様子を見てきました。石のような心を柔らかく優しい心にされるのを見てきました。神が人の心の中の痛みを癒されると、その人の様相は完全に変わります。

私は私のオフィスで、つながりも愛情も感じたことのない心を持つ人が、イエス様によって愛されていると感じ、さらに配偶者から愛されていると感じるようになるのを見てきました。

愛されていることを感じることに対して、彼らは初めて心を開きます。これまで感じたことのない何かに反応するのです。

数年前、子供のころにその精神が傷つけられたために、それ以来ずっとうつ状態のアーミッシュの男性が、自殺すると脅した後で私のオフィスを訪ねてきたことがあります。彼は治療を拒み、精神病院を出てきたところでした。私のオフィスに来たとき、この男性は 2 時間床を見つめたままで、私にはその顔が見えませんでした。話もしません。私は、のけものにされたり辱めを受けたりして心に傷を負った多くのアーミッシュの方たちに見られる痛みについて語り始めました。この男性の心を思いやることを始めました。2 時間後、彼は顔を上げて、こう尋ねました。「私についてどうしてそんなに知っているのですか。」私は「あなたのことは全然知りません」と答えました。彼は、「先生は今、私の人生について語られました。私の精神は壊れていました。私は、これまで侮辱され、のけものにされ、拒否され続けてきました。私のことを思いやる人など誰もいませんでした」と言って涙を流したのです。彼の隣に座っていた夫人も、多くの人によって傷つけられてきた心の痛みのために、夫はずっと落ち込んでいたことに気づき、泣き始めました。彼は対人関係で人とつながることや、愛されると感じることができませんでした。彼が何を必要としているかに気付いた夫人は、すぐさま心を開き、彼とつながって思いやりを示そうとしました。カウンセリングすること数時間で、彼のうつ状態は消え失せ、人との関係においてこれまでに感じたことのないつながりを持ち始めました。私が先に立ってイエス様への祈りをささげていると、彼は、以前に持っていたイエスさまについての概念は、彼自身の中におられるイエス様とは異なっていたことに突然気付きました。夫人との関係において感情で応答し始めました。これはこれまでの応答とはまったく異なるものでした。

私は主イエス・キリストが少女の目を見つめておられる絵が好きです。イエス様から愛されていると感じたことのない人がどれだけ多くおられるかご存知ですか。イエス様から愛され、理解されていると感じたことのない人が。そして、自分の心をイエス様が思いやってくださっていると感じたことのない人が。

私は、「How Great Thou Art(輝く日を仰ぐとき)」という歌が好きです。

英語歌詞: 日本語歌詞:
みかみはよびとをあいし、
ひとりのみこをくだしと
びとのすきのために
十字架にかからせたり。

イエス様は、私たちの罪を取り去るためだけではなく、私たちがイエス様によって大切にされているということを感じるために十字架で亡くなられたのです。

「He Knows Just What I Need(主は求むるところを知り給う)」という歌も歌います。

英語歌詞:
My Jesus knows when I am lonely,
He knows each pain, He sees each tear.
He understand each lonely heart-ache
He understands and always cares.

過去 20 年間、全国の教会の礼拝では、日曜日の朝の焦点は神を礼拝することでした。日曜日の朝は神を礼拝する必要があります。しかし、クリスチャンのコミュニティが抱えている問題を踏まえて、それとは異なることを提案したいと思います。

賛美の歌の 3 分の 1 は神を崇拝/賛美するものである必要があると思います。過去 12 年間に 1,400 組ものカップルと時間を過ごしてきて分かった最大の問題は、神から愛されることがどのように感じられるものなのかを彼らが知らないことでです。そのため、賛美の歌の 3 分の 1 は、神が私たちの心を思いやることに関連している必要があると思います。「御翼のもとに」(新聖歌 256)などの歌を歌って神が私たちを大切に思われているということを理解する必要があります。教会は私たちの心を軽視してきたため、神が私たちを大切に思われているという事実を強調する必要があると思います。

礼拝の残りの 3 分の 1 は、神によるみことばからの教示と、愛を持った心から真実を伝えることに費やす必要があります。人々はこの真実に答えることができます。

教会で賛美リーダーを務めておられる方は、賛美の半分を神の礼拝、残りの半分を、会衆席に座っておられる人々の心に神が触れ、ケアするために使うことをお勧めします。神とのコミュニケーションは、夫婦間のコミュニケーションと同様に、双方向です。神は私たちが神を賛美することを望まれると同時に、神自身が私たちの心をケアすることを望んでおられます。その結果、礼拝サービスにおけるバランスが必要になると思います。

神は私をどのように思っておられるか

神はあなたをどう思っておられるのでしょうか。そんなことを考えたことがありますか。聖書の中から、神があなたを個人としてどのように思っておられるかを知ることのできる箇所を見てみましょう。聖書は、神があなたの受胎時および誕生時にあなたについて何をご存知だったということ、そして神がどのようにあなたとつながりを持ってケアするかということを明確に示しています。

受胎/誕生時

私たちに向けた神の注意

次に私たちに向けた神の注意について考えましょう。神はどのようにして私たちに焦点を当てられるのでしょうか。神は私たちについて何をご存知なのでしょうか。

1. 神の知識 詩篇 139:1 ~ 6 によると、「あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました…わがもろもろの道をことごとく知っておられます…このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません」ということです。また、詩篇のこの部分ではこの作者は「あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます」とも言っています。私たちについて神が知らないことは何もありません。

2. 私たちの人生についての神のご計画 「わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。」(詩篇 139:16)

天国に行くと 1 冊の書物があり、その書物の中にはあなたが生まれる前に、あなたの人生の毎日が記録されていることをご存知ですか。驚くべきことです。天国には「命の書」があることは知っていました。そして、黙示録に書かれている他の書があることも知っていましたが、興味深いのは、私たちの人生の 1 日 1 日が神によって目的を持って計画されていることです。今日という日も、あなたに対する神の目的は、神のご計画とその目的に含まれているのです

3. 神の考え

神の私たちへの思いに注目してみましょう。「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。」(詩篇 139:17、18)

バケツ一杯の砂の 1 粒 1 粒を数えようとしたことがありますか。いつかやってみてください。バケツに入っている砂の粒の数を数えるのです。あなたへの神の思いは、神が造られたすべての砂よりも沢山あるということをご存知ですか。想像できますか。私には理解できないことです。神がバケツ一杯の砂の数と同じほど頻繁に私のことを思っておられることなど理解できません。神はそれよりももっと頻繁に私のことを思っておられるのです。神の思いは絶えず私たちに向けられています。

人の先にたって祈ることはすばらしいことです。「イエス様、私が子供の頃に心の痛みを経験したとき、あなたはどこにおられたのですか。父が一家全員の命を奪おうとし、私がベッドの下に隠れたとき、どこにおられたのですか。神様、どこにおられたのですか。」突然その人は、神、主イエス・キリストがその痛みをケアする様子を頭に描くことができます。その様子、考え、または聖書のみことばを理解できたとき、その人の中で何かが変わります。その人の心は、突然、神がそこにおられたこと、そしてケアされていたことに気付きます。悲しいことに、これらの真実を説教壇、日曜学校などでは伝えていないため、人々は神が実際に彼らを大切に思っておられることに気付いていません。

4. 神のタッチ

次に神のタッチに注目しましょう。神のみ手は私たちの上にあります。詩篇 139:10 は「あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます」と言っています。

5. 私たちの思いについての神の知識

私たちの思いついての神の知識に注目してみましょう。「遠くからわが思いをわきまえられます。」(詩篇 139:2) 神の思いは砂粒ほど沢山あることは既に理解しました。さらに神は私たちの思いのすべてをご存知です。実際に神は、そこにおられなくても私たちの思いを見抜くことができます。天国におられても、私たちの頭をよぎる思いのすべてをご存知です。落ち込んでいる人は 1 日に 30 ~ 40 の否定的な考え/思いを持ちます。 「私は見下げはてられている。」 「誰も私を愛してくれない。」 「誰も私を思いやってくれない。」 「私のために時間を割いてくれた人はいない。」

彼らは心の中でこのような否定的な考えを繰り返します。あなたの頭をかすめるすべての思い/考えを神は聞かれ、ご存知であることがお分かりですか。私たちの否定的な考えを聞くことに神は飽き飽きするだろうと思うでしょう。それでも神は思いやりを持って聞いてくださいます。99% 落ち込んでいる人に、その人のことを神がどれだけご存知か、そして神がそれらの否定的な思い/考えのそれぞれについて思いやっておられることを伝えることは、最も励まされることです。彼らが今経験しているような痛みを味わうことは、神のデザインには含まれていないのです。

神はあなたをどう思っておられるのでしょうか。

1. 貴重なものとして

まず、神は私たちを大切で貴重なものと思っておられます。私のトレーニング セミナーに参加していたある女性のことは忘れられません。弁護士である彼女は、心理学者と結婚していました。私のトレーニング セミナーでは、会場から個人に前に出てきてもらい、1 時間半で 1 つの問題に取り組み、それを定義し、私が先にたって祈り、その解決を試みます。実際の人々の問題を取り上げ、その解決方法をクラスに示します。

このカップルはカウンセリングを受けるために前に出てきました。2 人とも 99% うつ状態、95% 不安で、どちらも 99% の拒絶感を持ち、さらにどちらにも 99% の敵対心がありました。彼女は、ギャンブルにお金を使い果たしたアルコール依存症の父親のいる家庭で育ちました。父親が家族を養うことはありませんでした。母親が生き延びるため、そして 2 人の子供を養うために教会家族が彼女に金銭的な支援をしました。父親はそのお金をすべて使い果たし、酔っ払って帰宅していました。母親とその息子はお金が欲しかったため、家庭内ではいつも喧嘩が尽きませんでした。娘は家庭内の喧嘩を解決しなければなりませんでした。ある日、憤慨した娘は、父親が出かけるときにとうとうその父親を殴りつけてしまいました。父親はアルコール依存症の酔っ払いとして死にました。

この弁護士は、心理学者と結婚しましたが、この心理学者は 2 つの病院で心理学者としての仕事をした後、落ち込んで帰宅し、長いすに横になって眠り込む人でした。彼女は、彼とつながりを持とうとしましたが、しばらくして、彼はこういう人なのだということに気付きました。そのため彼女は基本的に彼から離れるようになりました。私は彼女の先にたって次のように祈りました。「イエス様、私と心のつながりを持たなかった母親と、アルコール依存症の父親を持ったという状況、そして体験したすべての痛みによって傷ついた私の心を絵に描いてください。」すると、イエス様は絵を描いてくださいました。その後、私は彼女にイエス様に次の質問をするよう促しました。「イエス様、私を愛しておられますか。」

この女性は 40 年間、誰の愛も経験したことがなかったことを理解しておく必要があります。イエス様は、次のようなひらめきを彼女に与えました。「あなたは私にとって尊い。」すると、彼女は目を開き、「そんなことを私に言ってくれた人はこれまで誰もいません」と言いました。私が「何ですか」と尋ねると、彼女は答えました「私を尊いなどと言ってくれた人はこれまで誰もいません」と。

後に私はイザヤ書で次のみことばを見つけましたが、イエス様がこのとき彼女に与えてくださったのは、まさにこのみことばでした。「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに」(イザヤ書 43:4)この女性は輝き始め、うつ状態は消え失せました。彼女の夫も同じ週にうつ状態がなくなり、彼らはお互いにつながり合い、ケアしはじめました。彼らは、誰かが彼らの心を実際に思いやってくれていたということに気がついたのです。

2. 友人として

神は私たちを尊いと見られているだけではなく、友人として見ておられます。イザヤ書 41:8 で神はイスラエルを「私の友」(新改訳)と呼ばれています。

ヨハネによる福音書 15:14 では、イエス様は「あなたがたはわたしの友である」とおっしゃっておられます。イエス様が十字架に架られた前夜、弟子たちに対して 3 度「あなたがたの友でありたい」とおっしゃいました。イエス様は「私は全宇宙の創造者である。あなたがたの罪のために私は死ぬのだから、私を礼拝せよ。私は上の者であり、あなたがたは私の僕となるのだ」と言うこともできたはずですが、そのようなことはおっしゃいませんでした。代わりに、「関係が欲しい、つながりが欲しい、私の心をあなたがたに伝えたい。あなたがたの心を私に伝えて欲しい。私はあなたがたの中にありたい。あなたがたにも私の中にあって欲しい」と言われたのです。感情的にこれ以上親密になることはできないでしょう。イエスさまは、弟子たちに彼らとの関係、フレンドシップが欲しいということを伝えておられたのです。全宇宙の創造主であられたことにもかかわらず、イエスさまは弟子として訓練した個人個人との関係でつながりたかったのです。

「No One Ever Cared for Me Like Jesus」という歌が好きです。多分私の一番好きな歌で、このシリーズにぴったりです。

英語歌詞:
I would love to tell you what I think of Jesus,
Since I found in Him a Friend so strong and true;
I would tell you how He changed my life completely,
He did something that no other friend could do.

No one ever cared for me like Jesus
There’s no other friend so kind as He;
No one else could take the sin and darkness from me,
Oh how much He cares for me.

Every day He comes to me with new assurance,
More and more I understand His words of love,
No one ever cared for me like Jesus.

日本語歌詞:

主の恵み語るは楽し(新聖歌 350)
主の恵みがたるはたのし、
主はまことのともなれば、
主はわがすべてをかえたり、
そはだれもなしあたわじ
主にくらぶる愛なく、まことの友もなし、
主のほかにはすくいはなし、くすしき愛よ。

われ心に罪を持ちて
苦しみ悩みおる時、
主は強き愛の手をのべ
救いに道びたもう

主は日々確信を与え、
御言葉さとらしむれど、
わがすくわれしわけは
ただ御国に入りて知るをえん

1 つ申し上げてもよろしいですか。イエス様のように人の心を変えることのできる方はいません。人を変えることのできるカウンセラーはいません。私は 1 人も変えたことはありませんが、光栄にも、人生を変えることのできる神へと人を導くという機会に恵まれています。それがこの生涯において信仰者があずかることのできる光栄に最も近いものです。

私たちは「Jesus, What a Friend for Sinners」という歌を歌います。 英語歌詞:
Jesus what a friend for sinners!
Jesus lover of my soul!
Friends may fail me, foes assail me,
He my Savior makes me whole.

3. 選ばれた者として

神が私たちについて考えられるとき、3 つ目の方法があります。神は私たちを選ばれた者としてご覧になります。イザヤ書 41:8、9、および 45:4 はそれぞれ同じことを言っています。「あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった。」 エペソ人への手紙 1:1 には「神の民として選ばれたのである」と書かれています。受け入れられている、愛されていると感じたことのない人が非常に多数おられます。そのような方々は、これまですっと拒絶されてきたと感じていますが、神は私たちの心をケアすることをお選びになります。

神は私たちへの思いやりをどのように示されるのでしょうか

神は私たちを愛されておられるという事実を 5 つの方法でお示しになっています。

1. 私たちをそれぞれの名前でお呼びになる。

人はファーストネームで呼ばれ、自分のことを覚えていてもらえると、気分がいいものです。このセミナーでも、牧師先生はあなた方に一度も会ったことがなくても、何人かの方をファーストネームで呼んでいます。先生は名前を覚えて、名前で人を呼ぶことが上手です。

神は私たちの名前をご存知で、私たちのそれぞれに注意を集中してくださいます。

2. 私たちをご自分のものと見なされる。

「I Am His and He Is Mine」という歌があります。

英語歌詞:
Loved with everlasting love…
O this full and perfect peace
From His presence all divine
In a love which cannot cease,
I am His and He is mine.

これよりも密接な関係はありえません。

3. 私たちと一緒にいることを切望されている。

神は私たちとともに在ること、つながりを持つことを望んでおられます。

4. 私たちの神であることを切望されている。

神は、私たちの神であることを切望されることにより、私たちへの愛を示されています。イザヤ書 41:10 には「わたしはあなたの神である」と書かれています。神は、友としてだけではなく、私たちとの関係を望まれている神として私たちが認識することを望んでおられます。

5. 私たちを強くすることを切望しておられる。

これらはすばらしい宣言です。これらは、神がイスラエルという国に対して、そしてその国の民の 1 人 1 人に語っておられる聖書の箇所から引用したものです。しかし、神は私たちのことも、イスラエルの民と同様に神の子として愛しておられるため、私たちにも同じことを語っておられます。

神が個人個人に約束されるセキュリティとは?

1. 私たちの手を握ってくださること

神は私たちの手を握ることを望んでおられます。私がカウンセリング中に、「イエス様、私の心にどのようにセキュリティをもたらしてくださいますか」と祈ると、相手の方は美しい花の咲いた草地を心に描かれることがよくあります。そこで私は「そのイメージの中であなたはどこにいますか」と尋ねます。その人は 6 歳ぐらいの少女がその草地を歩いているところを想像します。「イエス様、そのイメージの中であなたはどこにおられますか」と尋ねると、その人は「イエス様は私の手を握って私と一緒に草地を歩いておられます」と答えます。

祈り始めたときのその人の顔は、これまでに傷ついてきたさまざまな問題のために、苦痛で歪んでいます。誰もその人を愛さなかった。誰もがその人を拒絶した。皆がその人に苦痛を与えた。愛されたと感じたことは一度もなかったのですが、祈りは、音楽と同様に人をその心に結び付けるため、突然イエス様とつながります。面持は和らぎ、心がつながります。そしてそのイメージを忘れることができなくなります。

ほとんどの方はご存知ないと思いますが、実は私はとても不安な人間です。私のオフィスに来られる方に対して行っているテストを私自身が受けたとき、私の表現力は 1% でした。私は無口です。こうしてここに立ってお話している私が、無口とは多分ご存知ないでしょうが、実際とても静かな人間です。セミナーで話をするように、これまで何度も依頼されてきました。講堂に集まった 8000 人の前で話すことを依頼されたこともあります。突然すべてがシャットダウンしてしまいました。心の中で身動きが取れなくなり、話すことができませんでした。「神様、どうすればいいのですか。招かれてここで話をすることを承諾したのに、何も言うことがありません。ここにおられる方たちは私の話などに耳を傾けてはくれません。実際、私には何も言うことがありません」と神に語り掛けました。

イエス様は、手のイメージを私の脳裏に与えられました。それはイエス様ご自身の手で、その中には 16 mm ほどの背丈の小さな男の子がいました。イエス様の手の中でその少年はほとんど見えないほどでした。イエス様は、ヘブル人への手紙の中の一節を示してくださいました。「イエスを仰ぎ見つつ...」とあります。「単に私を仰ぎ見なさい。ジョン、このミニストリーはあなたのものではなく、私のものだ。あなたをこのミニストリーに召したのも私だ。あなたのアイデアではなく、私のアイデアだ。私の目的は、20 年間もうつ病に苦しんだ一人の人間の心をケアすることにより、その人が自由になって、他の人たちにも、自由になる方法を伝えることができるようにすることだ」とおっしゃったのです。神は、目的を持っておられること、そして、私が進んで話せさえすれば、その段階まで神が私を運んでくださるということを私に語り始められました。あのセミナーで 2 時間話しましたが、300 組のカップルが私のカウンセリングを予約されたため、私のカウンセリングのスケジュールは、7 年先まで詰まってしまいました。私はどう対処すればいいのかわからないほどでした。私は、提供できるものが何もない非常に不安な人間でしたが、私の神は、私の心をケアすることを望まれ、私の心とつながってくださいました。

「I Know Who Holds Tomorrow」という歌があります。

英語歌詞:
Many things about tomorrow
I don’t seem to understand;
But I know who holds tomorrow
And I know who holds my hand.

2. 私たちを保護してくださること

神は私たちを保護することを約束されています。イザヤ書 42:6 には「あなたを守った」とあります。

2 つの例

2 つの例を示してこのメッセージを締めくくりたいと思います。

1. すずめ

まずすずめの例です。ルカによる福音書 12:7 とマタイによる福音書には、神がどれほど私たちに気を配ってくださっているかについて重要なみことば含まれています。ルカによる福音書には、「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか?」と書かれています。実際には、アメリカではすずめを人に譲ることはできません。たとえ 5 羽を殺しても、それに対して一銭も支払う人はいません。聖書の時代には、すずめは 5 羽で 2 セントでした。イエス様によると、「たった 2 セントの価値しかないすずめでも、神に忘れられることはない」のです。マタイによる福音書 10:29 には、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」と記されています。神はすずめの死でさえも支配されます。「あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」とイエス様はおっしゃっています。私はあなたのために十字架で命を捧げたのだから、あなたは 2 セントよりずっと尊いのだと。神は、「あなたは私にとって大切」とおっしっています。エセル・ウォーターズは、ビリー・グラハム伝道大会で、「His eye is on the sparrow and I know He watches me」(神の目は(小さな)スズメにまで、そそがれている、 だから神が私を見守ってくださっていることを、私はわかっている)とよく歌っていました。

私の人生で最も暗かった時期に、私はある友人を訪ねました。彼は後でその経験を話してくれます。私は心の中で葛藤していた問題について彼に打ち分けました。話をして祈った後、2 人で駐車場へ行くと、私の車の前に 2 羽のすずめがいました。歩道はそのすぐ横を通っており、私たちはそれらのすずめから 60 センチほどのところを歩いて通りました。普通ならすずめは飛び去りますが、この 2 羽は飛びませんでした。車に乗ってドアをバタンと閉めてもも飛び去りませんでした。ただそこにとまっていました。聖書のこの箇所を思い出し、突然、神が私と語り合うことを望んでおられることを悟りました。「ジョン、あなたのことを私は思いやっている、これらの 2 羽のすずめのことも思いやっている。あなたにこれらのすすめを見させたかったため、飛び立たせなかった。あなたは 2 羽のすずめよりもはるかに尊い」と神は私に語りかけておられたのです。

カンサスの農場で育ったころ、よくビービー銃ですずめを撃ったものです。それほどすずめは私たちにとって価値がなかったのです。しかし、神は「あなたはすずめよりもはるかに尊い」とおっしゃっています。私は、そのことを考え、車内で泣きました。いつか天国に行ったら、私たちが神の前にどれほど貴重であったかを知ることでしょう。

2. 神にとって非常に愛しいもの

2 つ目の例は、私たちは神にとって非常に愛しいもの、神の注意を一身に浴びるものです。 申命記 32:10 で神はイスラエル人に「主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた」とおっしゃっています。250 万人の民が砂漠で食糧も水もなく 40 年間過ごすことなど想像できますか。神は、40 年間毎日水と食糧を与えて その 250 万人の世話をしなければなりませんでした。神はまさにそれを行ったのです。神はご自分の注意の的としてイスラエルに心を集中されました。今日はそのことを申し上げたいと思います。つまり、あなたは神の注意の的です。あなたはすずめなどよりもはるかに貴重であり、神はあなたと関係を持つこと、あなたが神の友となることを望んでおられます。 詩篇 17:8 でダビデは、「ひとみのようにわたしを守り」と書いています。 ゼカリア書には、「あなたがたにさわる者は、彼の目の玉にさわるのである」とあります。つまり、神の目にさわるということです。

神が知ること、理解すること、思いやることなく誰もあなたに触れないことがわかりますか。

人の痛みを癒すには 3 つの方法があります。

1. 「私たち」の祈りを使う

問題を抱えている人は、イエス様にお連れする必要があります。私はこれを「私たち」の祈りと呼び、その方を祈りで導きます。たとえば、あなたが夫であり、その妻は愛されていると感じたことがないため、苦しんでいると仮定しましょう。 「イエス様、私の妻は愛されたことがありません。彼女の父親はいつも忙しすぎ、母親はとても落ち込んでいたため、妻の心の活力まで奪ってしまい、そのため妻は愛されていると感じたことがありません。イエス様、このことが彼女の心にどのように影響したかを絵に描いてくださいますか。」2 分だけでいいのです。沈黙してください。 「イエス様、あなたは私の妻を思いやってくださいますか。彼女を愛しておられますか。」沈黙して、ご主人が彼女を抱き、神の御霊がこれらの問いかけに対する答えを、彼女の心に与えてくださるようにします。 「イエス様、どのようにして私の妻の心を癒されますか。イエス様、夫として私がこの心のニーズをケアすることをお望みですか。妻が持っている感情的なニーズをケアするために、あなたは私が何をすることをお望みですか。」神の霊による促しに従いましょう。 「イエス様、私の妻の心に平安をもたらしてくださいませんか。」 これが「私たち」の祈りです。

その人が祈りを繰り返す

もう 1 つ別の種類の祈りがあります。私がオフィスで使用するのはこのタイプの祈りです。私が祈りで人を導き、その人が私の祈りを繰り返します。次のように始めます。 「イエス様、私は父が私に対して示した怒りにより深い傷を負いました。そして、最近では夫が私に対して常に怒っていることから、私は拒絶感、欲求不満に陥り、心を隠し、それを開くことができないできます。イエス様、そのことからどのようにして私の心を癒してくださいますか。」オフィスでは、その夫人に私の祈りを繰り返していただきます。 「イエス様、私の心に平安をもたらしてくださいませんか。それが私の心に及ぼした影響を絵にしてくださいますか。」

心の痛みを思いやる

人の心を癒す 3 番目の方法は、配偶者、または他の人を理解することおよび思いやることに努めることによって、その人の心の痛みをケアすることです。

人の痛みを癒すには 3 つの方法があります。 1 つは「私たち」の祈りです。 2 番目は、あなたの祈りをその人が繰り返すことにより、その人が問題を理解し、イエス様にそれをもちかけることです。 3 番目は、その人の心を実際に思いやることです。

何年も前のことですが、セミナーをしていたときに、ある若い女性がカウンセリングを依頼してこられました。アレン夫妻(ウェインとジェニーン)がこの女性を部屋へお連れして、彼女が自由になれるようお手伝いしました。芸術家であった彼女は、割れたハートを描きました。それは鎖で縛られていました。錠の鍵は壊れており、鎖は彼女のハートを縛っていました。これが彼女が描いた絵です。

自由になるために祈った後、彼女は新しいハートの絵を見ました。鎖はなくなっていました。錠は開けられ、針と糸がありました。彼女のハートはイエスさまによって元通りの縫合されていました。その絵で神は彼女の心を癒しました。あのとき彼女と一緒に祈っていたウェインとジェニーンに、彼女はこれらの絵を送りました。

「Burdens are Lifted at Calvary」という歌が好きです。

英語歌詞:
Days are filled with sorrow and care,
Hearts are lonely and drear;
Burdens are lifted at Calvary,
Jesus is very near.

Cast your care on Jesus today,
Leave your worry and fear;
Burdens are lifted at Calvary,
Jesus is very near.

神は私たちの痛みのあらゆる部分を思いやっておられます。私たちが経験する痛みを見るだけでなく感じておられます神は、私たちが感じたすべての痛みを実際に理解され、感じておられます。実際、私たちが今週心の痛みの問題を検討する際、聖書のみことばを参照し、イエス様がその人生においてこれらの痛みをすべて体験されたことを示します。ですから、「イエス様、あなたは私が体験していることをご存知ではありません」とは言えません。イエス様は実際にそれらの痛みを感じられました。イエス様は痛みをじかに体験し、ご存知です。神は、私たちの痛みの中へ、そして私たちの心の奥まで入ることによって中から傷を癒すことを望んでおられます。

イザヤ書 40:11 には「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」と述べられています。

イエス様と 2 人だけのときを持ち、自分の経験や心の傷についてイエス様に語り、問いかけることをお勧めします。イエス様は、彼が子羊を抱いたイメージであなたにお答えになるかもしれません。その子羊はあなたです。また、私への答えと同じように、手を示して答えられるかもしれません。とても不安でおびえきった少年が手の中に立っているイメージです。その少年は無名の取るに足らない者でした。イエス様が、誰にも愛されたことのなかった少女と一緒に草地を歩いておられるイメージを見せられるかもしれません。また、ご自分の腕の中にあなたを抱き、あなたの目を凝視し、あなたの心を思いやっておられるイメージを示されるかもしれません。「私(イエス)はいつもあなたを愛してきた」という考えをあなたにくださるかもしれません。聖書からみことばをくださるかもしれません。聖書の物語を示されるかもしれません。あなたが 3 才の頃に見た日曜学校の壁の絵を思い起こさせるかもしれません。それはイエス様が橋を渡っておられるときに、その橋に穴があり、その壊れた羽板を子供が渡るのを助けておられたときの絵です。イエス様はあなたの心を癒すことを望んでおられます。イエス様はあなたの心を癒すために何でもすることができます。

小グループの聖書研究で、誰かと会って、末尾の問題について話合い、「痛みは癒されましたか」と問うことを開始することをお勧めします。実際にお互いの心を思いやり、教会の礼拝に来ている全員がイエス様から愛されていると感じ、イエス様と心がつながった関係を持てるようにするために、私たちはどうすればよいでしょうか。

ここで、黙祷しましょう。1 分間祈り、神にこのように尋ねてください。「私の心を思いやっておられますか。私のニーズを思いやっておられますか。私が苦しんでいる問題で私を助けてくださいますか。自由を経験したいのです。」

「天のお父様、私たちそれぞれを理解してくださり、愛してくださり感謝します。あなたはあなたの栄光のために私たちを創造され、私たちについてすべてをご存知であり、私たちの思いのすべてのご存知です。あなたは、私たちの心の中の感情的な痛みをご存知です。あなたが私たちそれぞれのニーズに、今日、対応してくださるようお祈りいたします。あなたが、多くの個人の心の中で成し遂げられることに感謝します。イエス様の御名によりお祈りいたします。アーメン」

Copyright John Regier 2013 ー Japanese posting 2015 Phil Hamm Translation: Takako Mori Taylor
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